【序章 「書きかけの小説」】
今、書きかけの小説が一つある。書き始めてから多分もう二十年くらいになるのだが、いまだに未完である。完成させる気がないのかというと、そういう訳でもない。二,三年に一度、古い原稿を引っ張り出して、推敲してみたり、書き足したりしている。それでも一向に完成しない。今のところで、まだ半分くらいの仕上がりである。枚数にすれば、そう、原稿用紙五十枚くらいだろうか。この計算で行くと、百枚の小説を書くのに四十年を費やすことになる。
どうしてこんな事になってしまったのか、少し語ってみたいと思う。若い頃、ちょうど高校三年の頃、ぼくは小説家になろうと決心したことがある。自分に文才があるとかないとか、そう言った問題ではない。ヘッセの「デミアン」を読んで、突然そう思ったのである。自分は小説家になるべきだ、と。それはほとんど、人間は小説家になるべきだ、と言わんばかりの乱暴な結論であったのだが、今振り返ってみても、それはそれで妙に的を得た着眼ではなかったか、と思っている。単純に言って、その時ぼくは小説家が世の中で一番偉い人間だと思い込んだのであり、そして当然の事ながら、ならば自分はそれになるべきだ、と考えたわけである。
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実を言うと、この思考パターンは、齢五十を過ぎた現在でも、あまり変わっていない。今更なれるなれないはは別として、自分はやはり世の中で一番偉い人間になるべきだと、心の何処かでしっかりと思い込んでいる節がある。幸か不幸か、現時点でぼくがまだ小説家になっていないのは、自分が一番偉い人間になるのを諦めたからではなく、「小説家が一番偉い」という認識が或る時ぼくの中で変化したからに他ならない。
三十を過ぎた或る日、ぼくは瞑想を始めた。勿論、たまたま始めたわけではない。形而上学的認識による意識的選択として始めたのである。平たく言えば、ぼくの中の「一番偉い人間になる」衝動の鋭い嗅覚が「瞑想」を嗅ぎ当てたと言える。
これは効いた。瞑想を始めて一ト月も経たないうちに、小説というものが、純文学であろうが、古典であろうが、もともと人間の娯楽を目的とした極めて無責任な代物であり、人々に真理を伝えたり、道を指し示すなどといった責務など最初から負ってはいないという事、更に、小説家という連中が、実はいずれもただのはったり屋の。無知な連中に過ぎないといった事柄が、つまりぼくのそれまでの小説に対する勝手な誤解が、たちどころに、何故か理由もなく自然に、ぼくの中で明らかになってしまったのである。
こうなってしまうと、もう小説家にはなれない。なれないことはないかもしれないが、少なくともそれに向かって努力するということは、もはや不可能である。またそれどころではなくなってもいた。「瞑想家」という新たなる一番偉い人間がぼくの視野の中に登場したのである。以後ぼくの人生のスタンスは「瞑想」に懸かりっきりになる。
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瞑想に関してはこれからおいおいお語って行くとして、取りあえずその後のぼくの中での小説の運命なのだが、それまでも一面としてはそうであったように、最終的にぼくの「意識レベル」のバロメーターとしての役割を担うようになった、と言ってよい。「文は人なり」で、小説の完成度の高さがそのままその時のぼくの意識のレベルを反映しているわけであり、ならば時をおいての推敲は自らにそれを確認させる目安となる、というシステムである。
とはいえ、意識レベルというものは、たとえ毎日瞑想を続けたところで、そうそう簡単に向上して行くものではない。或る時突然に、ということはあるらしいのだが、その「或る時」までが、やたらと長いのである。そんなわけで推敲の間隔が年単位といったものになって来るのである。
飽きないか、と言われれば、多少飽きた。そこでこの「瞑想録」である。たまには意識のたびの途中経過を報告してみたいではないか。多少は言いたい放題の本音も、こっそり語ってみたいではないか。
そんなことから、つまり未完の小説の代替品として、このエンライトメントまでの途中経過報告集、我が「瞑想録」が生まれたという次第である。
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【第二章 『 下っ端の神様たち 』】
瞑想を永年やっていると、いろんな事が起こってくる。十年ほど前の或る日、朝眼が覚めたら突然「神様」が降りてきた。
どういうふうに降りて来たのかというと、ぼくの口をついて、やたら勝手に喋りまくるのである。嘗て大本教の教祖、出口ナオに突然起こったという、あの現象である。因みに古神道ではこれを「口切り」と呼んでいるそうだが、まさにその言葉の如く、堰を切ったように口から言葉が飛び出してきたのである。
その言ってることが、重大な未来予知であるとか、人類発展のための画期的な啓示であるとか、少なくとも事故防止や病気直しの的確なサジェスチョンであったならば、ぼくもその日からちょっとした教祖になっていた訳なのだが、残念ながらぼくの口をついて出てきたその言葉は、日本語ではなかった。
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「宇宙語」と取りあえず呼んでいるのだが、まあ、何が何だかさっぱり解らぬ言葉であり、それでいて、やはりどうも、それは「言葉」らしいのである。丁度その頃、知り合いに何人かのチャネラーがいたので、彼等ならこれが訳せるのではないかと尋ねてみた。「私は何と言っているのでしょうか?」と。 そうしたところ、驚くなかれ、ちゃんと訳せたのである!
ぼくの口を借りて喋っている連中はどうやら霊的一集団であり、その代表格というか、スポークスマンというか、グループ名というか、ともかくその者は「キーバッタ」と名乗った。爾来ぼくは彼等のことを神様、もしくはキーバッタちゃんと呼んでいる。
たとえキーバッタなどといういささか情けない名前の主であるとはいえ、一応神様なのだから、きっと結構なお告げをして下さるのだろうと思われるかもしれない。事実ぼくも初めのうちは大いなる期待と敬意を持って彼等に接し、通訳の訳すそのお言葉を拝聴していたのだが、そのうち段々面倒くさくなって来た。まず第一に通訳を介さなければならないというそのシステムに問題があった。わざわざ人様の手を煩わせるにもかかわらず、しょうもないことを言われた日には、ぼくの立場がない。実際それほどしょうもないことを言う訳ではないのだが、ありきたりの事はしょっちゅう言っていた。まあ考えてみれば、話し手と聞き手のレベルがある一定の条件を満たさない限り、ありきたり以上の話などなかなか出来るものではないだろう。
そこで何とか自分一人で理解する方法はないものだろうかと、いろいろ家で実験してみたところ(さすがにこれは人前ではうっかり出来ない実験である)ぼくの質問に対して「イエス」「ノー」の回答が返ってくるというシステムが開発された。これはなかなか便利なシステムで、いずれ小出しに語って行こうと思うが、このシステムのお陰を被ったエピソードには事欠かない。
一度神様に、ぼくの周りのチャネラーたちは、ちゃんとあなたと無線による会話、通信が出来るのに、何故ぼくだけが、こんな原始的な手旗信号みたいな交信しかできないのだ、と訊いたことがある。その時の答は、いろいろな解説を施すよりも、むしろ「イエス」「ノー」の方が単純明快で、答としては解りやすいものなのだ、と言うものであった。確かにそんなものなのかもしれない。因みに船井行雄の著書を読んでいると、ラジエスセシア(霊界通信)の一パターンとして「イエス」「ノー」でお告げをもらう彼の友人の話が載っていた。世の中には結構似たような人がいるものである。
ところでその「イエス」「ノー」なのだが、もしこれが100%当たるものなら、やはり今頃は教祖であるか、その前にまず億万長者になっているはずなのだが、そうは簡単に行かないところが、なかなかうまく出来ているといえば、出来ているところである。微妙に外れるのである。外れるパターンはどうやら次のようなケースである。一.神様が質問に答えられないか、もしくは答えたくない時二.正しい答を出すことが、却ってぼくの行動を誤らせると神様が勝手に判断した場合。三.単純に神様が間違えるケース。そんなわけで、少なくともキーバッタチャンを頼りに株の売買をするのはやはりリスクが高すぎるのである。
神様に間違いがあるのか?と思われるかもしれないが、どうも結構ありそうなのである。理論的に言えば、不確定性原理が存在する以上神様にも計り知れない部分がこの現象界には存在する、と言える。不確定性原理が完璧な理論かどうかは別にしても、だいたいぼくみたいな所に降りて来る神様など、神様の位としてはたかが知れている。所詮「下っ端の神様」でしかない。ミスなんて、おそらく日常茶飯事であろう。
神秘学的には、人間に関わる神様には眷属、天使などといった立派な階級名が付けられているのであるが、その実態は、神々の中の最下層階級のことなのである。といっても別段彼等を馬鹿にしている訳ではない。波動の構成からして、それ以上の階級の神様からの直接的的なコンタクトは、どうやら物理的に不可能らしいのである。従って最上級の神様の意向も最下層の彼等を使って人間に伝えられることになる。まあ、多少の間違いも起こるだろう、というところである。
ついでにこの「宇宙語」だが、聖書の中で「異言」と呼ばれているものがおそらくこれに当たると思われるし、又、ユダヤの秘教カバラにおいて「天使語」と呼ばれているものもどうもこれらしい
「天使語」などと言うと何やらたいそうなものに聞こえるのだが、神々の下層階級である天使たちが語っている言葉、即ちぼくが暇に任せて秘かに気味悪く一人ごちている言葉が、何のことはない、それなのである。
もう少し詳しく話すと、この「宇宙語」の他にもう一つ「古代日本語」と思われる言葉が時折降りてくる。日本語という以上、多少は意味の分かる言葉が混じってもいるのだが、たいていは意味の解らぬ日本語らしきものである。但しそれには特徴があって、それは「歌」なのである。
百人一首や歌会始めで知っての通り、古来和歌は旋律をつけて「歌う」ものであるが、実はあれは、古代日本語の継承なのではないだろうか?古代日本語においては、会話に旋律が伴っていたのではないだろうか?そう言えば古代インドの伝承であるヴェーダも又、旋律を持った「詩」として語り伝えられているではないか。
実際のところ、たとえ下っ端の神様といえども、その歌は馬鹿に出来ない。実に優雅な、心地よい調べなのである。例えて言うなら、よく金田一ドラマに登場する、美しい着物姿の狂女が口ずさむ歌に似ている。そう、何処か間延びした、ミステリアスな旋律なのである。当然これ又、うっかり家で実験することも出来ないのだが。 この古代語の旋律には、おそらく魔力があるものと思われる。今言ったように、なかなか実験しにくい代物なので未だ確かな事は言えないが、例えば女性を誘惑する歌、子供を眠らせる歌、の様なものはありそうである。子守歌などは案外その流れを引いているのかも知れない。但し「恋歌」について言えば、たとえその歌でもって女性を誘惑しようと試みても、それが成就する前に、相手に気色悪がられて逃げられてしまうのが先であるように思われる。
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十年以上になる彼等との付き合いの中でお互いに最も気を遣ってきたことは、どうやら自主性の尊重のような事ではなかったかと思われる。ぼくの彼等への依頼心が強くならないように、時々巧みに引っ掛けてくれるのである。
神様とは友達付き合いをするのが一番いい、というのが船井幸雄の意見であるが、ぼくも経験上概ね同感である。いや、そうではなく、思いっきり甘える方が神様は喜ぶものなのだ、という意見もあり、事実それで結構うまくやっている例も見てはいるが、どちらかというとそれは若い女性にのみ許されるパターンのように思える。何処かで彼等と張り合っているようなところのあるぼくには、ちょっと難しいテクニックである。まあ、そこそこ賢く善良で、完全ではない親しい友人が一人いる、ということで充分ではないか。そのことを神に感謝すべきであろう。
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【第三章 『 第三の涙 』】
第三の涙、と言うものがある。悲しみや痛みから泣くのではなく、また感激や興奮から湧き出るいわゆる嬉し涙とも、また異なる。或る時、ぼくはその涙に出くわした。
それはヨーロッパ旅行に出かける数日前のことであった。約三週間ほどの旅行日程であったが、何処をどう廻るのか、往復の飛行機の便以外ほとんど何も決まっていなかった。そもそもが何処そこへ行きたい、という目的があった訳ではない。たまたま珍しく暇と金があったから組んだ旅行である。初めはいくつかのパックを想定していたのだが、人に相談していたら、いろんな事を言う人がいるもので、行き掛かり上ついつい、ユーレイルパスを使って一人で勝手に旅行することになってしまった。ホテルは着いた駅の案内所で聞けばよいそうである。聞けばいい、と言ったってそれほど言葉に自信があるわけではない。とはいえ、一応大卒のインテリである。そんな事で二の足を踏む訳には行かない。そんなこんなで段々気苦労の方が先に立って来てなかなか軽やかな旅のイメージが湧いてこないままに、出発の日が迫ってきたのである。
取りあえずやるべき事から片付けておこうと、床屋へ行くことにした。床屋では概ね目も口も閉じている。眼鏡を外すので、目を開けていたところでほとんど何も見えないからである。親爺と世間話をする習慣もない。従って勢い小一時間余り、居眠りをするか考え事をすることになる。旅の計画を練るには丁度いい環境である。
まず当面の目的地を決めることにした。必ずそこへは行く、という場所である。そうすればコース及び日程のアウトラインが決まるではないか。うむ、それなら候補地はすぐに決まった。ゲーテアヌーム。ルドルフ・シュタイナーの本拠地である。それをおいて他にはない。パック旅行では絶対に行けない場所である。位置的にもそれは丁度良かった。飛行機のチケットは、ロンドン着、チューリッヒ発である。ゲーテアヌームのあるドルナッハはその二つの都市の途上にあった。これにパリを加えれば、後はまあ行き当たりばったりで何とかなるのではないか。どうやらイメージが湧いてきた。散髪が終わったら本屋へ寄って旅行書を買って来よう。
そうやって何となく一安心したとき、ふと別の思いが心をよぎった。もしかしたら、今回の旅行の目的は、初めからゲーテアヌームに行く事だったのではないだろうか?と。その瞬間、すべてが氷解したように目から涙が溢れてきた。あれ、なに、これ、どうしたの?といった感じである。体は半ば椅子に縛り付けられ、頭には鋏を入れられている最中である。その場をどう取り繕ったのかは覚えていないが、多分胸の中では言い訳にならない言い訳をぶつぶつ唱えていた事だろう。
気にしなくていい。別に俺は悲しい訳じゃない。辛い事がある訳じゃない。それにそもそも、俺は泣いている訳でもない。涙が勝手に、ほとんど機械的に湧いて出て来ているだけなのだ。強いて言えば、俺の中の別の奴が、多分嬉し涙に暮れているのだと思う。恐らくそいつはゲーテアヌームにゆかりのある奴で、そこへ行ける事になったので嬉しくってしょうがないのだろう。いやそれだけではなく、やはりこれは一つの暗示、一つのシグナルなのかも知れない。ゲーテアヌームでは何か意味深い事が俺を待ち受けているのかも知れない。いずれにしろ、これで今度の旅行は保証された。
散髪を終えるとすぐに本屋へ駆け込み、旅行書を買い込んだ。本棚を物色している最中も、ちょっと気を許してゲーテアヌームのことを思い浮かべると、すぐさま涙があふれ出てきた。勘弁しくれよ、と思いながら、ぼくの胸は数日後に迫った旅の思いに膨らんだ。
これで実際にゲーテアヌームに着いて劇的な状況がぼくを待ち受けていたとしたら、話としては面白いのだが、残念ながらびっくりするような感銘や、感動に出会うという事は別段なかった。ただ間違いなく、ぼくはゲーテアヌームに歓待された。多くの偶然がさりげなく働きかけ、大変心地よい二日間をぼくはその地で過ごすことが出来た。
後日判ったことだが、第三の涙のシグナルはやはり前世に関連したもののようであった。ぼくの前世は必ずしもシュタイナーや人智学協会と直接的な関わりを持ってはいない。しかしシュタイナーがある講演で述べたことだが、シュタイナーの側近、及び協会員の多くは、十一〜十三世紀にかけてフランスのシャルトル大寺院で学んだ新プラトン派、及びスコラ哲学派の神学者たちだったそうである。そしてどうやらぼくもそこで学んだ学僧の一人だったようで、それ故、人智学協会の人々とはいわば旧知の間柄となるらしい。
更に言えば、ゲーテアヌームを訪れる数日前、それとも知らずぼくはそのシャルトル大寺院に立ち寄り、その町で半日を過ごしているのである。旅の貴重な時間を使って、何故そんなところで半日も過ごしたかと言えば、ただ何となく、その小さな町のたたずまいが心地よく、強いて言えば懐かしかったからである。はっきり言ってシャルトルは、初めてパリを訪れ、そこで数日しか過ごさない旅人が行くところではない。ノートルダムは知っていても、シャルトルを知っている日本人からしてほとんどいない。私とて初めて耳にする町の名であった。渡航前、たまたま留学経験のある二人の友人から、パリに行くならシャルトルがいいよ、とまるで口裏を合わせたように勧められたから訪れたまでの事である。
だからどうだという事ではないが、何やら前世の因縁が色濃く漂う、いかにも思わせぶりなヨーロッパ旅行であった
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【第四章 『 宇宙人との会話 』】
宇宙人から、宇宙人に間違えられる事がよくある。シスコの街を歩いていて、外人から道を尋ねられるようなものである。お前は人間に化けた悪い宇宙人ではないか?などと、あらぬ疑いをかけられた事もある。彼等に言わせると、ぼくには人間特有の「気」が大変乏しいのだそうである。ぼくはそれを、長いこと瞑想をやっているお陰でぼくの中のエゴがかなり浄化されたせいだろうと、勝手に解釈している。
ところで彼等とのコミュニケイションの形式であるが、ぼくの場合はすべて、夜空にいる星かUFOか見分けのつきにくい光を相手に、チャネラーを介しての会話である。従って宇宙人を相手に話しているつもりが、いつの間にか回線が乱れて下っ端の神様と話していた、などという事もたまにある。星かUFOかの区別はだいたいの勘で判るのだが、いつもそれほどの確信があって交信している訳ではない。今話している相手が、今見つめている光そのものかどうか、心許なくなる事もある。そんな場合、ちょっと動いてみてくれ、と言うと、たいていの場合は上下左右へと揺れてくれる。中にはこっちが手を振ると、赤青黄の光をくるくると回転点滅させて合図をくれるサービス満天のUFOもいる。
ぼくの知人の中には、実際にUFOを光ではなく形として目撃している者が何人かいるし、中には家族ぐるみで宇宙人と親しくお付き合いしている一家もある。そこの奥さんの話では、彼女の会った宇宙人の形状は人間というよりむしろ鉱物に近いもので、会っていてそれほど気持ちのいいものではないそうである。その家ではもっぱら子供が宇宙人と大の仲良しらしく、時々一人でUFOに乗せてもらったりしているとの事である。何でもその子が呼びつけると、まるで犬かハイヤーのように、庭先にUFOがすっ飛んで来る、という事もしばしばだそうである。
ぼくにも一度だけ、彼等がすぐ近くまでやって来た、という経験があるが、その時は一緒にいた通訳の女性のチャネラーが怖がって追い返してしまった。当然夜、夜中、人気のない場所での話である。出現するのがアダムスキーの写真に出て来るような金髪の美女ならともかく、そんな鉱物人間だったとしたら・・・まあ、お互い顔を合わせなくて良かったのかも知れない。
彼等の出身地は本当か嘘かは知らないが、火星であったり、金星であったり、聞いたことのない星であったり、たまには外宇宙、銀河系の外の星であったりまちまちである。彼等が何をしにやって来ているのかは定かではない。実際それぞれ異なった星から異なった理由でやって来ていると考えるのが自然だろう。ただ神様に言わせると、宇宙人の中でも人間にコンタクトを取ってくるのは、やはり性格的にお節介な連中であって、その点下っ端の神様と共通するものがあり、それでついつい教祖になってしまう宇宙人がいたりするのだそうである。
彼等と話していて、いかにも宇宙人的発想だなと恐れ入ることが時々ある。例えば原発反対運動の話をしていた時など、ぼくが、あんなふうにプラカードを立ててワイワイやったところでナンセンスだと、もっぱら戦術的な批判をしたところ、あいつらはバカだ、とさすがにぼくでもうっかり口にしないことを平気で言ってのける。彼に言わせると、放射能廃棄物による海上汚染と言ったところで、せいぜいここ五百年間の海の話だ、と言うのである。五万年前、五十万年前の海は、今よりももっときれいだったとも言えるし、汚れていたとも言える。少なくとも五十万年前の海は放射能に満ちていたし、それが当たり前だった。彼等はたかだかここ五十年間における海の状態を捉えて、それがたまたま自分たちの生活に合っているからという理由で、あたかもその状態が本来であり、永遠であるべきかの如く「汚染」という言葉を使っているが、それは余りにも自分勝手な視野の狭い話しである、と。お説ごもっともと言えるほどの理屈とは思えないが、いかにも宇宙人的な時間感覚のご意見で、改めて、あ、こいつ本当に宇宙人なんだ、と妙に納得した次第である。
もう一つ興味深かったのが、交信中突然彼等の間に、何だあれは、何だ、何だ、と一種のざわめきが生じたことである。何を騒いでいるのかと思ったら、その時車の後部座席に置かれてあったシュターナーの書籍がその原因であった。置いてある本を見ただけでその内容まで解るというのはさすがだが、シュタイナーはやはり人間を越えた存在だったようで、宇宙人をして驚嘆せしめた訳である。それは一体どういう本だ、と訊くので、ぼくも得意になって、人間は現在股の間から生まれているが、将来的には喉が子宮となり、口から生まれてくるようになる、と彼は言っている、など宇宙人向けのシュタイナーの講義をしたところ、そうか、我々は現在そうして生まれている、と偉く納得し、彼についてもっと知りたいという。だったらヨーロッパのバーゼルの近くのドルナッハという町に彼の本部があり、そこには彼の全著作があるから、そこへ行ってみたら、と教えてやると、そうか、じゃあそうしようと、ありがとうも言わず、さっと交信が途絶えてしまった。ドルナッハへすっ飛んで行ったようであった。
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【第五章 『 エクソシストごっこ 』】
別段偉そうに言うわけではないが、ぼくは瞑想者として「シッダ(Sidha)」なる称号を有している。シッダ・ルタの、あのシッダである。この称号の厳密な意味は定かではない。成就者、超越者、超能力者、等々の訳語があるが、いずれもかなり的が外れているように思われる。
ぼくの属している倶楽部におけるこの称号の意味は「空を飛ぶ者」ということになるらしい。これもシッダの訳語としては通らない言葉だと思うのだが、何故かそういうことになっている。因みにかのオウム真理教でも同じ意味でこの言葉を使っていたが、あれは完全にパクリである。そう言えば麻原彰晃のマスコミデビューは確か彼が(ほんのわずか)宙に浮いた写真であった。
じゃあお前も空を飛べるのか、と訊かれれば、そう飛べるのである。(少なくとも麻原よりはちゃんと飛べる。)インドのヨーガ行者達と同じく長期間のある特定のトレーニングを経れば、全部が全部ではないが、大なり小なり「飛べる」ようになるものなのである。そのことに嘘はないのだが、とはいえ多少のハッタリがない訳でもない。
まずこの「飛ぶ」という言い方だが、これは英語の「フライング」をそのまま訳したもので、実際にぼくの獲得した能力を正確に表現はしていない。ぼくの能力としてはせいぜい言えて「ホッピング」であり、近頃ではそれでもおこがましく思えてきて、単なる「ヒキツケ」と言うことにしている。但し「ヒキツケ」と言ってもそうそう馬鹿にしてはいけないのであって、時折精神病院でキツネつきと称する女性が、独特のヒキツケでもって二メーターくらいピョーンと跳び上がるそうである。
ぼくのヒキツケにしても、何も意味なく修行までしてそんな能力を獲得した訳ではない。この「ヒキツケ」の最大のポイントは、重力に逆らっているという点である。これがシッダのシッダたる所以なのである。
重力とは「物質の持つ力」であり、おそらく意識を「重く」する作用がある、と考えられる。立花隆の「宇宙からの帰還」をご存じであろうか?そこでは宇宙飛行士たちが、次から次へと宇宙、即ち無重力領域で「悟って」行く現象が紹介されている。重力からの解放は人を悟りへと導くのである。いみじくも「悟り」の現代的な言い回しは「宇宙意識」である。
従って「シッダ」の持つ能力、及び行法、即ち「シディテクニック」は、こまめに、習慣的に重力の束縛から抜け出すことによって、少しずつ意識を軽くし、物質力から解放され、日々一歩一歩「宇宙意識」へと近づいてゆくテクニックであり、トレーニングなのである。
ところで、ぼくの倶楽部には内緒の話だが、実はこのシディテクニックの他に、ぼくが独自に開発した浄化法として「エクソシストごっこ」なるものがある。その行法の最中に起こる現象がいかにも映画の「エクソシスト」そっくりなので、あ、かの悪魔払いとはこういう事だったのかと一人納得して付けた名前である。
この行法の特徴は自らの浄化されて行く様が逐一確認できるという点にある。一匹一匹、自分の中の悪魔的存在が断末魔の呻き声を上げて口から出て行くのである。よくまあこんな気色の悪い奴が自分の中にいたものだと呆れ返る輩が、次から次へと果てしなく出て行く様はまさに「エクソシストごっこ」なのである。いかにぼくの発明とはいえ、うっかり人に見られたらとんでもない事になりそうな行法なので、用心して最近はまったくやっていないが、しかしこの行法から得られた体験はそれなりに貴重である。
まず我々の「心」或いは「エゴ」、即ち「自分」と思い込んでいるものが、実は聖人君子から悪鬼まで、様々な霊の「集合体」であるという事が実感でもって認識できる点である。本当に見るからにおぞましい輩が自分の中から出て行くのであるが、それはどう言い訳してみても今までぼくの中に巣くっていたぼく自身の一部に他ならないのである。このぼくにしてこの有様であるから、人間とはなかなかに恐ろしい存在であるようだ。
更に驚きと戸惑いでもって実感する事は、このおぞましい悪鬼や、どうしようもない阿呆や、ともかく気色悪い面々が、追い出しても追い出しても次から次へと際限なく湧き出て来る事である。この行法はそれほど楽な行法ではない。悪鬼一万匹、こいつ等を相手にこの先この行を延々と続けて行くとしたら、と思うと気の遠くなるような話しで、結局我が悪鬼どもに根負けして、この「エクソシストごっこ」からはリタイアしてしまったのであるが、事ほどさように浄化の道は遠大なのである。
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【第六章 『 ソーマ 』】
瞑想と菜食の複合効果として「ソーマ」の産出がある。ソーマとは「ヴェーダ」に出て来る古代の神酒であり、おそらく同様のものを指して、中国では「甘露」と呼ばれている。実際それがどのようなものなのか一般には誰も見た事がなかったのだが、サイ・ババが頻繁にそれを物質化するようになってから、「ソーマ」を見たり、味わったりする機会が生じてきた。
ぼく自身もインド帰りの友人から、サイ・ババが出した石から湧き出て来た、と言われる甘露を貰い受け、口にした事がある。ジャスミンのような香りが仄かに漂うかなり甘い蜜であった。スプーン一杯くらいを舐めたら、たちどころに体が熱くなり、頭がいくぶんハイになった。実に効くな、という印象であった。友人の話では、それを知り合いの癌患者に飲ませたところ、回復不可能のはずの肝臓癌が完治したとの事で、これからそれをもって東京の癌患者のところへ行くのだと言っていた。
ところでぼくも又、その「甘露=ソーマ」をたまに産出するのであるが、別段サイ・ババのように空中から現出させる訳ではない。が、かと言って、さほど尋常な手段で作り出す訳でもない。ぼくの場合は、口の中から出て来るのである。分泌箇所としては、舌の付け根の両側辺り、分泌するのはすべて空腹時、但しそれも時たまである。意識的に出せる訳ではないが、断食などしている時はかなり頻繁に口の奥から舌先へ向けてまろやかな甘い液が滴り落ちてくる。
ぼくの倶楽部の説明では、これは人間の自己充足型栄養補填システムで、空腹になると自然に体の中から発生して空腹を満たし、かつ体に活力をもたらす分泌物だそうである。道教関係のところでも甘露について同様の説明を受けた事があるが、そこでは、いずれカタストロフィーの時がやって来て食べる物もなくなって来るが,この甘露自己生産システムがあれば、その苦境を生き延びられるのだという話しであった。
インドでは何年間も断食を続ける聖者の話や、神に満たされると食事が不要になるといった説があるが、このソーマ分泌システムがその秘密なのかも知れない。
そういう訳で、ぼくの場合も理論的には何も食べなくても生きて行ける状態になっているはずなのだが、本当か嘘か、その実験は、まあ実際にカタストロフィーの時が来るまで取っておくことにする。
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